襟の形が、如何にも中国的ですね。清朝時代の民衆の衣装を彷彿させますが。生地はかなり薄く、どちらかというと、平地、街住みの地方の衣装かもしれません。
襟は数カ所でトンボで止めます(写真では安全ピンですが)。この生地も卵白の艶が見られます。
薄い生地ながら、プリーツの沢山付いてるのが、ミャオらしいです。刺繍は無く、あっさりしてますけれど、落ち着いた黒が素晴らしい。
一変して、ゴワゴワキラキラの、貴州省剣河県のミャオ族の衣装。重いです。ミャオ族の衣装の真骨頂は、刺繍ともう一つ、このように、きらびやかな銀飾りにあります。
背中はもっと、キラキラです。左に有る、鎖の付いたプレートみたいな物は、首から下げる胸飾り、右のキラキラは銀の頭飾りです。とはいっても、これらは純粋な銀では無いようです。
祭りでは、この衣装を着た女の子達が、輪になって踊りますが、この重たい衣装を着けて踊る訳ですから、飛んだり跳ねたりは、しません。身体を上下に揺すって、衣装に付いた鈴や銀飾りをシャンシャン鳴らして、歌を歌うようです。
漫画やアニメーション的には、この衣装を着けた可愛い女の子が、飛んだり跳ねたりが欲しい所でしょうが、それはムリでございます。
銀飾りのアップ。花鳥風月のデザインが、粗く打ち抜かれていて、力強くも風情がある。
刺繍も当然、細かいです。左端に蝶々の刺繍が見えますが、ミャオ族の信仰と蝶々のモチーフは、深い繋がりが有るようです。
これは飾りスカート。これの下にも、黒のスカートを履いている、筈です。すだれのような形態の、このスカートはミャオ族衣装の特徴の一つです。
最後は、雲南省のイ族の衣装。写真では上着と頭飾り、帯などをまとめてあります。パーツが沢山ある衣装です。下はズボンを履きます。着付けの仕方は、一通り説明受けたんですが、もう解らなくなってしまった(笑)。
数年かけて、こういう物を集めましたが、こうやって、衣装を買うばかりの自分に、疑問も募ってまいります。集めてばかりではきりがなく、自分には何ら成長がありませんし。むしろ、自分は作る側を目指さないと、いけなかったのではないか、と思いました。
そういう想いが、今の絵本玩具の研究や、作家になろうと思った気持ちに、繋がってます。
ミャオ族の村など、今では観光地化されている所も多いようで、比較的気軽に赴けるようですね。ただ、そういう所では、本来の民俗文化を眼にする事は出来ないのでしょうし、生の暮らしを、直に見たい想いもありますが、他人様の暮らしをただ観に行って、どうするんだって、想いもある。
素晴らしい民俗文化を持つ村が、中国の奥地の何処かにある、と知っただけで、もう良いような気がする。ただ、中国の奥地であっても、近代文明の流入は止められませんから、民族文化の質は、急激に変化し続ける事でしょうね。それは覚悟しておかないと。
私の中の理想は、白黒写真で見る、ミャオ族の古い時代の人々の姿にこそ、見られます。昔の山での暮らしは、今の私が想像する以上に過酷ではあるのでしょうが、それ故に、ただ一日を生きる事自体に、充分な生き甲斐を見出せる気もしますし、何より、身に着けた藍染めの衣装の存在感が、一人の人間の存在そのものを、可視的に体現しているようで、人生と文化が一体になった充実感を、思わせてくれる。
もちろん、勝手な感想ではあるけれど、例えば、昔、苦しい想いをしながらも、毎日が充実してた自衛隊時代の作業服(戦闘服)は、今の暮らしに着用しても、完全に周囲から浮いた存在になるように、服飾と暮らしは本来、密に繋がった物でもある。
素晴らしい衣装と、それを支える民俗文化は、その対価を着用する者に強要するけれど、それを是として受け入れても尚、その世界で満足して生きて生けられるような、力が有るように、思う。
今の私の暮らしには、それほどの魅力や価値のある文化を、感じる事が有りません。日本の伝統も文化も信仰も、時代の都合に合わせて姿を変えたり、生み出されたりしたものが、圧倒的に多いように思うけれど、それはまた、仕方の無い事でもある。
極端な話し、封建的な時代や地域ほど、服飾文化などの伝統文化は、重厚さと深みを増すと思う。個人の自由を謳える時代はもう、それらを所望するのはワガママかもしれない。
自分の足下の文化の軽さに、不安になりながらも、自分なりの価値観をよすがに、毎日の暮らしの意義を、感じ取らねばなりません。・・・という事で、民族衣装はおしまい!
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