父と娘でプラモデルを作る時間が持てるのは、嬉しい。ついでに(妻が熱出してたので)、夕食も一緒に作った・・・ああ、嬉しい。
小さなパーツのバリも、ちゃんと奇麗にカッターで処理させる。どんどん、どんどん、手先が器用にな〜ぁれ!
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先日、学校の遠足で動物園に行った娘。美術科なので、ちゃんと動物のデッサンもした一日だったようですが、出かける前はオヤツ持参が禁止されたのを、とても残念がっていた。確かに、遠足でオヤツが無いのは淋しい。しかし、規則は規則だ。先生の側にも色々と思惑があるのかもしれない。学校の規則がどれほどバカバカしい物であれ、自分で選んで入った以上は、先ずはそれに従うのが筋だ。
それを「支配」なんて言葉で表現する事の幼稚さも恥ずかしいが、ただそれに従うだけなのも、つまらない。
それならば、「オカズとして、オヤツを弁当箱に入れて持って行けば良い」という大人な指導をしてやったら、自分で何やらデザートなど作って、持って行った。
案の定、友達の多くは、こっそりと持ってきていたらしい。がしかし、オヤツ禁止は先生の勘違いだったらしく、一緒に行った上級生は皆、オヤツ持参だった。
なので、皆で先生にブーイングしたそうですが、それは違うんでないか、と私は大人な反論をした。
例え先生の勘違いであれ、オヤツは禁止と通達受けたにも関わらず、多くの生徒が(こっそり)持ってきていたのは、それは先生の指導に対する違反であり、既に違反を犯した者が、間違えを犯した先生を批判するのは筋違いである。
批判は、先生の指導の通りに、オヤツを持って来なかった者のみが、許されるのであると。
それと同時に、例え禁止されてるとは云え、物事の捉え方、解釈の仕方次第では、幾らでも抜け道はあって、自分で責任を取れる範囲に於いては、時には臨機応変に解釈し、対応する事も大事である事も、付け加えた。
つまり、今回、先生から言われた通り、オヤツを持って来なかった子は立派であったが、本来オヤツを食べられた筈のところを、食べられなかった訳で、残念な思いをした。
対して、オヤツを持ってきた子は、規則に違反する行為を行ったのだが、後に本来許される行為であった事が判明した事で、オヤツを食べる事が出来て、楽しい思いをした。
これがもし、無人島に漂着でもした話しならば、生き残れるのは明らかに、「規則に違反して持って来た」子のほうだろう。独り立ち出来る大人になるには、こうした図太さ、したたかさが必要不可欠だ。
それでも、オヤツを持ってきた子は、オヤツを持って来なかった子に、オヤツを分けてあげれば、全部丸く収まって、一件落着のように思えるが、「立派な大人な私」としては、「規則に違反してオヤツを持って来ていた」という部分が意識から捨てられるのが引っかかる。
やはり、この場合の正解は、「オヤツをオカズとして、弁当箱に入れて持って行く」というのが、一番大人な行為なのでは、あるまいか。
私は、自分の娘を、そういう大人として、育てて行く・・・つもりです。
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